長時間労働が生活の余裕を奪うことで、社会の問題に目を向け社会運動に携わることから多くの人々を遠ざけている、との分析を、活動家時代に耳にした。仮にそうだとすれば、次の言い分も一理あることにならないものだろうか? 幼少期からの家庭の機能不全を含め、多種多様な場での諸々の加虐のおかげで、慢性的に心身を患い、社会運動に関わるどころではない生活を余儀なくされる人々の話だ。
そのような人々は、目を向けられず、声が聞かれていないだけで、身動きがとれないまま、この社会のそこかしこでなんとか命を繋いでいるだろう。私はそう、思いを馳せる。私たちはその存在を、果たして無視できるものだろうか? 当人にとってはいくら逃げたくても無視などできない、ありのままの苦しい現実である。そしてその重荷を背負っているせいで、こき下ろされたり失望されたりするのを甘んじて受け入れ、爪弾きにされる目に遭う。
私が一時関わっていた、表面では社会正義を掲げているような社会運動の内部においても、虐げられてきた人々に対する想像力が見事なまでに欠けている場面に遭遇することは珍しくなかった。活動家の側が「オーガナイズ」、つまり人々を仲間として巻き込むことに力を入れるとき、目の前の相手が、生きるために基本的に備わる必要のあるものを、人生の若い時点で無惨に打ち砕かれている可能性だって、十分にあるはずだ。
苦しみを受け止め合う。ありのままの姿を尊重し合う。それよりも、「苦しんでいない人などいない」「君の苦しみは特筆すべきものではない」「つべこべ言わず、置いていかれないうちにさっさと回復して、モーレツであれ」 ー 私が転々としてきた場は、そんな理念が当たり前な環境の連続だった。
一方で私は、モーレツを実行する、つまり過労と、その結果健康を害することから免れた。なぜならば、私は最初からモーレツを実行しうる心身の体力や能力を持ち合わせていなかったからだ。(唯一モーレツをやり通したと言えそうな学生時代の毎度の定期試験勉強も、長期的にコツコツ勉強することなく「最大瞬間風速」的に10日ほど背水の思いで走り抜けていただけだった。)
私の中に確実にあるはずの得体の知れない苦しみは、上に述べたような周囲の人々の後押しもあり、私の手によって放置され続けた。何度か小さな氾濫はあったものの、やり過ごしてきた。
だが、ある日、生活の全てが飲み込まれる決壊が起きた。信じていた、仲間だと思っていた人々に、最初から騙され、裏切られていたことが判明した。思い返せば、バレエ作品『ジゼル』で、主人公があの事実を知った瞬間さながらの出来事だった。この衝撃が生んだ怒りの爆発によって心身に起きた異変は、これまでのそれとは一線を画するものだった。「ひどくなる前に」と言い聞かせて、家から近い精神科に駆け込んだ。
(続く)
コメントを残す