「外傷的事件の恐怖は庇護的な依存欲求を強めもする。したがって、外傷を受けた人は孤立と〈他者への不安に満ちたしがみつき〉との間をひんぱんに往復する」
「親密関係を受け容れる能力は、欲求と恐怖という矛盾した、しかしいずれも強烈な二つの感情によって損なわれる」
- ジュディス・L・ハーマン(2023)『心的外傷と回復 増補新版』中井久夫・阿部太樹訳, みすず書房, pp. 82-83
ジゼルの物語とウィリの存在が、意図せずに私のいる世界をはじめて覆ってみせたのは、こちらの最終段落で述べた(以下に述べるものとは別の出来事ではあるが共通項をもつ)「決壊の日」から1年目の秋に、私がある知人を「喪失した」、悪く言えば「捨てられた」日だった。その1か月ほど前から、私の体調はそれまでで最も悪い状態に陥っていた。その体調悪化に追い討ちをかける形で、知人の「喪失」という出来事がさらに私の体調に重くのしかかった。
複雑性PTSDを抱える人が持ちうる「共依存的」性質の産物としては当然のものだと、心理士さんに伝えられてはいるが、健康な人と比べるならば「病的」だとしか私は思ってこなかったアタッチメントを、私はその知人に対して10年近く蓄積してきた。そのため、関係を絶たれる日を迎えることは大きすぎる重みをもっていた。その日、知人へ送る文面をスマホに打ち込んでいたとき、私の体は突如として発熱した。向こう数日間は、心身のあまりのしんどさと熱気に、体がジリジリと焼かれて消え入るように死ぬ心地がした。それ以降、今に至るまで、連日寝ても覚めても心因性発熱を起こす体質になってしまった。
その日、極度の熱気のなかで、まとまった文章になり得ない苦しみをたまたま書き留めたことが、私の散文の執筆の始まりだった。力なく書かれた文字を読み返したとき、「もしかしたらこれは詩と呼べるのでは」と頭をよぎったのがきっかけだ。感情を羅列する中で自ずと浮かび上がってきた、いやほとんどそこに飲み込まれたと言えるのが、『ジゼル』第1幕終盤の、ジゼルが狂乱する場面だった。
これから紡がれるのは、笑い事ではなく、「私は本当にウィリなのだ」と気づいてしまい、さらには、このバレエ作品の主人公たる「ジゼル」こそが私だと、確信を深めていく様を追う物語だ。どのようにして、限りなく縁遠い物語だと思い込んでいたバレエの演目が、寒気がするほど自分にぴったりと投影されるに至ったのか。それを少しずつ書き連ねてゆく。ジゼルの物語が浮かび上がってきた直接のきっかけは知人を「喪失」した体験ではあるが、これから描いてゆくのは、それについてのみならず、幼少期のトラウマや、社会運動でのパワハラなどのグリーフワークの文脈にも及ぶ。
『ジゼル』というバレエ作品の大作を、私のような素人が個人の体験を綴るのに持ち出すことは、おこがましいとも感じている。それでも恐れ多くもその試みに踏み出すのには理由がある。
幼い頃何度も読み耳に馴染んだ童話のように、人口に膾炙したこの物語の悲劇性は、視覚と聴覚とを動員して私の意識に刻まれている。私は「その日」、それまでの自分には計り知れないほど広く深く、この物語が私の中に根付いているのを知った。「その日」以降、時薬によって勝手に消え去ってくれやしない悲しみを少しでも手にとるうえで、『ジゼル』が凄絶な悲劇という大作であるがゆえに、底知れぬほど私を助けてくれたのだ。このことは、初診から1年以上経過した時期に私がグリーフワークに着手するうえで、生命線となった。大仰な悲劇の世界が、私が感じ得るには大きすぎる喪失と悲しみを照らす鏡となってくれた。そして、それまで断片的な想起にとどまっていた一方で、私の喪失の物語を再構成する骨格までも与えてくれた。
(続く)
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