斎藤学氏の『アダルト・チルドレンと家族 心のなかの子どもを癒す』(1996)はこのような文章から始まる。「世の中には自分というものを肯定することがまったく出来ないという人がいる。その人が自分のことを手紙で訴えるとすると、たとえば次のように書く」(p. 3)と。この次に、激しい折檻によるトラウマを抱えたある青年が斉藤氏に宛てた手紙が引用される。この書き出しを読んだとき、複雑性PTSDを抱える私にも少々思い当たる出来事があった。ここでは、その青年の手紙の代わりに、試しに私の例を述べてみようと思う。
「自分の長所を3分で10個挙げるように」- この一言のおかげで、私はひどく退屈な目に遭った。これは、学生時代に試しに紛れ込んでしまった就活セミナーで、あくまでも無難な問いかけとして講師が指示したものだ。その後迎えた3分間の手持ち無沙汰は、衝撃を伴いながら、私に自分自身の病理をまざまざと突きつけてきた。つまり、私にとっては、右を見ても左を見ても、何も思い浮かばない時間だった。まるで何かが私を邪魔して、思考回路が麻痺しているかのようだった。
恐れ多いことだが、他者が見出したと伝えてくれた長所はいくつか知っている。いや、言われてみれば何も思い出せないかもしれない。とにかく、私の胸の内ではどの指摘もしっくりくるものではなく、同意したことがない。褒められれば褒められるほど、孤立していく。私しか、私の本当の姿を知らないのだという孤独の淵へ、より一層追いやられる。
場違いのセミナーに居合わせてしまった場面に戻る。その後、思いついた内容をペアで共有し合うよう指示された。私がどうやってその場を取り繕ったのか、記憶にない。冷たく乾いた笑いを堪えきれない一方で、恥を忍んで架空の長所を数秒で列挙せねばと慌てふためいたことだけは覚えている。
意図せぬところで発見に至った、自分にとってはさすがに注目に値すると言ってもよさそうな自らの病理をよそに、私は今、自分の手中にあるそれをひた隠しにすることを要求されている場にいることも、同時に悟った。その根拠となったのは、何度か反芻しても合点がいかないものの、とりあえず脳内のぎこちない処世術のノート(仮)に書き留めておいた体験や言葉の数々だ。
例えば、どうやら、情け容赦のない人々がどこに紛れているかわからない空間で「病んだ」素振りを見せようものなら、「メンヘラ」などという言葉で平然と後ろ指を指されるのを目撃したことがある。他には、「ネガティブ」な一面を他者に見せることは、それを見聞きする相手を「イライラさせ」「面倒がらせ」ると、友人に口を酸っぱくして教え込まれてきた。それと、「みんな苦しんでいる」んだから、自分の悩みをわざわざ話題に上げるには及ばないとのこと……
上述のエピソードを通して私が伝えたかったのは、私が身を置いてきた世界では、トラウマと呼べるものを他者に語ることは市民権を得ていないということだ。世間一般もきっとその傾向が強いと、私は踏んでいる。苦しみで身動きが取れない状況に自分がいるとする。その苦しみを、自分が感じている大きさのまま、ありのままの姿で、他者に見せたり、もう少し行けるなら、受け止めてもらう。それが叶ったことが数えるほどでもあるなら、幸運なことだと思う。大抵の場合は、種々の理屈によってこちらの苦しみがダウングレードの認定を受ける羽目になる。良かれと思って励ましてくれる場合を含めてだ。
(続く)
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