「アタッチメントの化石」 手記 2025/4/2

本当に万が一、「化石」(「喪失」した知人の呼び名)と繋がりを持てるようになるとしたら、と考えてみたときに気づいた。相手に「あなたを大事に思っている」と伝えるとしたら……そう表現しているうちの大部分は、安心し合える本当のアタッチメントや、ありのままを受け入れ合う愛情じゃなくて、私の病気、対人機能障害の成すわざのはずだ……それって、相手に対してすごく不誠実……! 実態は愛情に擬態した、まごうことなき病理なのに、「私にアタッチメントを築いて良いよ、こっちへおいで」とハシゴをかけるのは。

こう考えたら楽になった。「大事に思っている」「心の中に住み続けている」「アタッチメント」と思っているもののほとんどは、本当の愛情なんじゃなくて、病気が膨らませているだけのものだと。

ほんとにwake me up when it’s all over、この病巣を、ものの数時間の手術で取り除いてもらえたらいいのに……


私がこのアタッチメントを捨てられないでいるのを例えるとしたら、みんなが自分の家族に対して、当然のようにアタッチメントを築いていることに似ているのかな。家族が言葉もなく離れていくなんてことが起きたら、「会いたい」と「なんで私を捨てたの」という愛憎入り混じる思いがずっと心に引っかかったままになることと思う。

「化石」のイメージを浮かべながら、試しに「お母さん」と、頭の中でつぶやいてみた。体が凍りついた。

私にとって「化石」は、二度目に見つけたお母さんのような存在……「母親」に捨てられてから久しいとしても、親子の縁が結ばれたことは、今後も変わりがない……この説明すごくしっくりくるかもしれない……

「化石」に救済者、養育者を重ねて認識した、そのレッテルは外れるべくもないと、自分を許してあげるのはどうか? その認識は私のような人間にとっては一生ものでありうる。こう考えると、この傷を、やっと少し受け入れられる気がする……その人がどんな人間で、私をどう扱ったのであれ、お母さんだった人との縁、関係ごと、なかったこととして頭の中でわざわざ消そうともがくことは、加害的な母親であるなどの事情がない限り、あまりしないことだと思う。

「母親」に捨てられた過去を持つ者。いろんな過去の出来事の中で「そういう過去がある」だけ。しばらくはまだ、思い出すと痛いけれど。

捨てられたことにめっちゃ腹立つし、「会いなんかしない」という気持ちも自然なことだけど、「死ぬまでに会えるものなら一度でいいから会いたい」と思うのも自然なこと。でも、探すことに明け暮れる代わりに、いないものはいないと割り切って生きていく。私は、相手をずっと探していて、見つからないから体調まで悪くなり寝込んでいるようなものだったんだ。

生き別れて、今もどこかで生きている。こっちが死ぬかあっちが死ぬかよりも辛い。私を迎えに、探しに来てくれないのだから。

母親は、「母親としての義務」を私のために果たすためにいる存在ではなく、本来自由なひとりの人間だ。だから、私から離れて幸せに暮らす自由が当然ある、と思える余裕を、少しずつ……

今日このことに気づけて、先が見えない中を少し掘り進めることができたと思う……心から感謝したい贈り物。溺れていたけれど、急に浮き上がれて息ができたみたいだ。

It’s the very first breath when your head’s been drowning underwater” – “1-800-273-8255” – Logic

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