カウンセリングの記録 2025/4/1

この日のカウンセリングでは、10年前から抱えていた「アタッチメントの化石」の問題(こちらに簡単に記載しています)を、現在のクリニックに転医してから1年以上経って、初めて話しました。

「誰かに話せる話ではない」「自分が情けないだけの問題だ」と決めつけてきたので、話すとなると、とても勇気が必要な内容です。これまでカウンセリングで打ち明けてきた話の中で、一番ハードルが高い話題でした。そのため、実は重い体調悪化のきっかけにもなっていたのに、心理士と主治医の先生各位にこの話をひた隠しにしてきました。

この日、心理士の先生は「これまでの話が全て繋がった」「熱に出るくらい体調が悪化するほどの軸がわかった」と合点がいったそうです。

ここでは、心理士の先生が私の話を聞いて言い換えて表現したり、指摘してくださったりした内容を含め、カウンセリングで話し合った内容をまとめます。


  • 「化石」という人物にアタッチメントを感じざるを得ない、衝撃的な出来事だった。自分の存在そのものを受け入れてくれるかもしれない、という衝撃。それまで、小・中・高校で、爪弾きにされるなど人間関係でもめていたうえでのことだから、一層その意味合いが強かったはず。
  • この出来事はそれまでのトラウマに由来する副産物であることは確実。この生育歴を持っていると、「病的なアタッチメント」というよりも、極々自然の帰結
  • 絶望的な愛着の不足、枯渇を背景として、これまでのトラウマを象徴する出来事として「化石」の事件は起きた。ありのままの存在を認めてもらえる経験がそれまでずっと難しかった。広大な砂浜から特定の貝殻ひとつを見つけるような難しさのもと、やっと見つけた貝殻が、10年前の「化石」だった。
  • 「化石」の衝撃のその瞬間に、「おまえは人を愛し愛されることを許されない」と、ずっと探していたものが見つかった途端にシュレッダーにかけられ、「おまえはウィリだ」と言い渡された。その延長線上に、私は今も居続けている苦しみ。変わることのない同じ現象の中にそのままいる。
  • この件と当該人物を「化石」という名前にした経緯:数年前から「古傷が痛む」と表現していた中、昨年以降「古傷などではない。これは傷口が広く深く開いたままの生傷だ」と呼び方を変えた。だが、最近になって、「10年も前の傷だ。抱えたままでいるのは事実だが、さすがに古すぎる」と思い至って「化石」となった。
  • この呼び方の変遷は、先を見据えているもがき方にも感じられ、ポジティブな予感がする。
  • この件は、これまでの色々なトラウマを考慮しても、最上級の苦しみだと思う。
  • 話せるようになるまでものすごく時間がかかった。途方に暮れている状況ではあるが、ここで話せている時点で、前進の過程にいると思う。幼少期や社会運動でのことは、私にとってもっとアプローチしやすいものだった。今まで「化石」についてまな板の上に乗せていなかった中、私の抱える問題の深部に迫っている気がする。
  • 「先が見えない」という不安があるが、同時に、先が見えないところを進もうとしているのはすごい力。
  • 「こんな問題を抱えているのは情けなくて恥ずかしい」という感覚に囚われているが、さもしいものではなくて、捨てておいてはいけない問題だと思う。

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