“Pain don’t hurt the same, I know
The lane I travel feels alone”
- “1-800-273-8255” – Logic
そもそも、悲しみや苦しみのかたちは人の数のぶんだけある、ということは自明ではなかったのか? 聞く相手に対して信頼を感じるという、必ずしも安全の保障されていない綱渡りを進みながら、自分がどんな苦痛の渦中にあるのかを人が訴えるとき、往々にして「抑圧のオリンピックだ」と揶揄される。この指摘は妥当な指摘の域をはるかに超えているのではないかと、私は悲しむ。
もちろん、そう口にする人々も意図していることではあろうが、各々の抑圧は大小などで順位付けできるものではないし、する意味もないと思う。一方で、それゆえに各自の苦しみを表現することが不毛な行為だと断じられることに対して、私たちは抵抗してもよいはずだ。
他者がいくら軽視し無視し揉み消そうとしても、現実には無くなることのない苦しみの中で生きるほかない一人一人が、さんざん苦しみの感情を無自覚のうちに抑圧してきた中で、勇敢にも少しでも自らの声を他者に共有しようとするとき、どうして、このごに及んで、「苦しみを表現してはならない」という「抑圧」まで受けなければならないのか?
以前、社会運動の内部で、誰かが痛切に苦しみを吐露したのち、同情して聞いているふりをしていた外野が、本人のいないところで「抑圧のオリンピックに意味はない」と声高に蔑む場に、私自身居合わせたことがあった。
そのときの私は、鼓動が速くなり、体が震え始め、息が詰まるのを感じながら、行き場のない怒りをおぼえた。そして同時に、他者に対して苦しみを如実に描写して伝えようとするとき、それがどれほど無惨に踏みにじられる可能性を孕んでいるのか、体に刻みつけながら学んだ。
その後の私は、そのように他者を踏みつける発言に収斂され得ない、苦しむ者たちの尊厳があることを知った。苦しいことを苦しいと表現することが「無意味」で「有害」だと非難されるのだとしたら、私たちは競い合うことを超えて、各人が打ち明ける苦しみや等身大の姿を力の限り受け止め、寄り添い、労うというメダルを「全員に」授け合っているとでも例える尊厳を、自分たちに対して認めていればいいと、今となっては思う。
わたしがこの文章を綴るのは、私の経験や今置かれている状況が特筆すべき苦痛であるから、ではない。えもいわれぬ苦しみにあえぎながらも、安心して思いを打ち明けられる人が1人も見当たらない人、聞かれるべきであるはずが、かき消されてしまっている声、そのあまたの叫びに、無条件の尊厳を認めるよう世に求める闘いを始めているのだ。これから私が紡ぐ「ジゼル」の物語は、私だけのものではないと信じている。
私が綴る文章は、私なりのグリーフワークのあり方ではあれど、グリーフワークの正解のひとつなどと捉えられるべきものだとは、当然思っていない。意図せず人を傷つけることを完全に避けうる万能の視点を持ち合わせているとは、当然ではあるが残念ながら申し上げられない。そして、私の文章には視点の偏った断定も多く含まれているはずだ。他者による断定が、その言葉を発した者には思いがけない形で人々を締め出しうることは、言うまでもなくそこかしこで起きている。
専門家や患者の方々が私の文章をお読みになれば、有害な言説を含んでいるとご判断いただく可能性も十分孕んでいるだろう。治療過程の途上にある患者一個人が、歪みきったままの思考から紡ぎ出した文章としての一面が強いことも影響していよう。このことは認めつつ、私は人を傷つけないよう最大限尽くす責任を平然と放棄する姿勢を突きつけたいのではないと伝えたい。傷つけられ、締め出されたと感じる人々の声が聞かれ、それによって常に新しい地平を紡いでいくこと、その営みに、自分自身の声も携えながら、肩を並べたいと願っている。
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