私の心の状態は、心的外傷の詳細 -なぜ、何が、どのように起こったのか- を世に伝えることを、まだ許さない。そのため、説明や注釈を大幅に欠いた散文によって、本ブログは構成されていくことになるはずだ。前置きとなる背景を、思いつく範囲、語れる範囲で語ろうとしたがために、冗長な「前日譚」が出来上がってしまった。
私の語りが、今を生きる私たちの精神に通底した悲哀をどれほど誘いうるか、もしくは誘い得ないのかは、書き手として不誠実ながら、関心を払える余裕を私は持ち合わせていない。あくまで、自らの身に起き、自ら感じた現象を、主観の域を脱さずに綴る営みに徹していることを、ご了承願いたい。
私が執筆を通して目標としているのは、おこがましいかもしれないが、言うなれば現象学的な「経験の記述」に参加することである。以下、稲原ほか(2020)『フェミニスト現象学入門 経験から「普通」を問い直す』(ナカニシヤ出版)からの引用をもとに、「経験の記述」について簡単にまとめる。
現象学は「抽象的な論理的思考ではなく、現実の経験を具体的に記述することから哲学を始める」(p. i)
「これらの章も経験の本質(何があっても変わらないもの)を示そうとはしていない」(p. ii)
「フェミニスト現象学のキーワードとして『経験の記述』という言葉を連発してきたが、『ただ記述することに何の意味があるのか』と思った方もいるかもしれない。しかし、記述のもつ力はフェミニズムに歴史がすでに証明している」(p. iii)
「経験の記述にはそれまで見過ごされてきた問題を見えるようにし、争点化させる力がある」(p. iii)
「フェミニスト現象学は、『その「現実」のありようへと接近する作業』に従事する。フェミニスト現象学が記述に専念するのは、社会批判を避けるためではなく、現にあった体験の力を信じているからである」(p. iv)
そして、この序文の最後には、「もしよかったら記述の作業に加わってほしい」(p. iv)と書かれている。
私は上記の引用箇所をはじめ、この序文を読んだとき、背中を押され、抱きしめられるようで、泣きそうになった。「理想」や「正しさ」、「異常」、「未熟」もなしに、現に起きていることの中に、問題のありかや問い直す力を見出す営みが「経験の記述」なのだと、私は受け取った。
私への共感や同情を集めることが、私の執筆の目標ではない。読者各位に、私ではなくご自身の「言い難い身体や感情の微細な動き」(p. iv)やエンパシー(「他人の身になって考えること」(p. iv)) -あなたの靴を筆者が履く- を、私の記述の中に見出していただけることを、微力ながら願っている。
コメントを残す