社会運動参加のアポリア 手記 ‘24年12月〜 ‘25年1月①

2025/1/8

私が見てきたなかでは、社会運動に関わる市民団体やNGOも、往々にしてエリートの集まりに傾きがちだった。高度な「知的作業」を要求されるから。勉強や経験が比較的足りていなかったり、病気や障害で心身の余裕がなかったりする人々は、労働の「構想」から「疎外」されざるを得ない「有象無象の」「低能な」「雑魚ども」(私にパワハラしてきた者たちの実際の発言)とされ、居場所がなかった。少なくとも、運動の中心からは弾き出された。


もはや「階級」の違いすら感じるので、こじつけの域を脱しないが形容してみると……社会運動参加において、いわゆる「健常者」が持つ体力や時間の余裕、これまでの経験や勉強の蓄積というのは、もしかすると、労使関係における、「生産手段」にあたるのでは? そして彼らは「アビリティ」の文脈における「ブルジョワ」なのでは?

そして、労働における「疎外」と同じことが起こってるんじゃないだろうか? 社会運動において、いわゆる「健常者」がその馬力を駆使しながら高度な「知的活動」を担う一方で、病者・障害者である私はまともについていけなかった。勉強が足りないとかやる気がない、信用ならない、と糾弾される。それゆえ、「上」に押し付けられる雑務に徹すると割り切るか、「低能」だと言外に人格否定されるのを甘受しなければならなかった。


2024/12/8

弱者の視点に立とうとする者の思想だからこそ持ちうる暴力性

弱者の立場に立っていると標榜しながら

これはこうあるべきと断じるからこそ

弱すぎてそのドグマからこぼれ落ちる者は

地面に打ちつけられ

他の誰に囲まれるよりも強烈な孤立を感じる

トップダウンのエンパワメントが持つ限界……

誰もが、闘うために勇めると思うなよ

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