「アタッチメントの化石」 手記 2025/4/23, 24,26

2025/4/23

当時の私に寄り添うとしたら……

「どれだけ愛し愛されることを渇望していたのか……痛いほど、そして何よりも、望んでいたんだね。そうでなければここまで深い傷を負わなかった」

愛し愛されることは私にとってあり得なかったことであり、同時にあってはならないことだった

愛されうるかもしれない、というかすかな可能性が目の前をよぎった瞬間に、それは許されざることだと、逃れ得なかった呪いによって遮られた

どれほど、ありのままを受け止め合う愛情に飢えていて、些細な出来事がこの帰結を迎えたのか

この痛みの記憶が、インナーチャイルド「リラ」の嘆きを照らし出してくれる

この化石、生傷は、リラに会うための橋渡しなんだ

だから、忘れ得ない痛みとして、私の中に〈残ってくれた〉のかもしれない


2025/4/24

十年も乱れてきたこの心を

君との出会いごと 最初から厄介払いしたい気持ちがそびえたっている

だから

「君に生きていてほしい」

それが化石への私の一番の願いではないと知る

このアタッチメントはもう 愛情ではありえないよね


2025/4/26

今日、いつもより長く夢を見たので、痛む感覚がまとわりつくのと、考えが様々に巡る。


養育者としての化石を喪失したことを、十年経とうと受け入れられないでいる。一言で言えばそんな状態なのだと思う。喪失とその嘆きを自覚するという手段を踏んでこなかったのだから当然。ずっと向き合ってきたつもりだったけど、核心の感情に触れることなく、横道にそれ続け、迷子になっていた。

喪ったものなしで生きていこう、生きていける、と思えるときまで、痛むけど進んでいこう? そして、これからの〈私〉だけは失わずに取り戻すんだ。


はっきり言えば、私を失うか、化石を失うか、二つに一つだよ。自分を失い続けてもいいなら、化石を追いかけていけ。探し続けても化石は戻ってこないし見(まみ)えることもないのに、そこから目を背けたまま。

それか、私をこれ以上失わないために、化石を思いきって捨てる。今度は自分の意志で手放す。捨てようにも、すでに失っていたものだったと気づく。嘆きつつ、失ったことを受け入れられるようになる。今回は自分で選べた選択を、きっと清々しく感じると思う。


良かった思い出なんてないに等しいけど、心にしまっておく。いつか、出し入れしても痛まないものになるといい。そして、喪失したものとしてピリオドをつけたうえで、悲しいなら一生泣いていい


化石の痛みに触れないように、いろんなものを「回避」している。その痛みは、「養育者」を失った痛みで。化石のことはここまで鮮明に痛みとしての意識がある。それは、幼少期の私のトラウマを照らす鏡になりうる。今の私が忘れているか、感じないでいる、当時の苦しみが浮かび上がると思う。


「向こうが悪い」のでも「私が悪い」のでもなく、これによって痛んだぶんだけ、それまでの私が傷ついていたということ。


当時の私、「捨てられる」って思い浮かばなかったのかな? そのせいで、一年経って結局捨て置かれて、もっと傷ついた。「今回は捨てられない」という痛切な希望を「再演」してしまったのかな。

痛すぎて、血がずっと流れている。


なんで私があんたの存在の日陰にならなきゃいけないんだ? あんたが一瞬私を遮っただけで、なんで私はずっとその陰に隠れ続けてるんだ?

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