当然なことではあろうが、社会運動や支援活動に関わることは、動機がなんであれ「参加したい」というシンプルな思いを、自分の心に抱くところから始まる。そこまでは、誰にも何も強制されることなく、洗脳も断罪もなく、自由でいられる。だから、過去関わっていた社会運動でのあのトラウマを経た後でも、そしてこの病気を抱えているとしても、私は「もう少し回復できたら新しい運動に関わりたい」と思えている。私は今、良くも悪くもナイーヴでいられる束の間の自由の中にいる。
でも、別の組織であれ参加してみたなら、また暴力的に窮屈になってしまうのではなかろうか、という暗雲が垂れ込めているのにも、気づいている。「社会運動に参加しない奴は皆、無条件悪だ」なんて言葉が当然のごとく飛び交う場に、また身を置いてしまうのだろうか。
説教する順番を数人で繰り返しながら、時間がいくら過ぎても厭わず、執拗に同じ追及を続けていた様は、今考えれば、過ぎし日の内ゲバの様相を呈していた
「俺たちは命かけてやってる。お前たちは命かけてないだろ」
この言葉を突然思い出したとき、私はうめきながらうずくまった
命をかける奴以外いらないと、知らぬ間に強制されていることに慄く
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